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2008年12月 9日 (火)

忠臣蔵

この時期になると、茶の間では忠臣蔵が定番だった。「本所松坂の吉良邸・・・に赤穂の四十七士が、殿さまの仇討ちに・・・」テレビの前に座り込み、見入ったものだった。赤穂浅野家城代家老だった大石蔵助は、亡き殿さまの仇をうつまでのあいだ、当時の武家人情とはかけ離れた存在だったと、在る書物は描いていた。仇討ちは江戸末期時代まで、公然と行なわれていたらしい。仇討ちの相手そして罪状を明記した届出を、当時の代官屋敷に持参してあだ討ちの許可証のような果し状をもらうのである。時代は変わって幕末から明治になる前に、今度は薩摩藩が幕府と戦った。勝海舟、西郷隆盛らもその当時に登場した人物で、その頃は仇討ちとは言わず黙殺いや暗殺とも言われるようになった。敵対する人物には打倒と言う名目で次から次に闇に葬られた。幕末から明治維新にかけて新しい日本を作ろうとした人たちも多くが犠牲になった。ところで仇討ちには、美談とされていた経緯があったようだが、実はそうではなかったと聞く。忠臣蔵では、浅野の殿さまが刃傷事件で吉良の殿さまに切りつけその後、切腹お家断絶の裁きを受けた腹いせとも言われている。もともと吉良のお殿さまは、息子を上杉家に養子させ吉良家も裕福な環境にあったし、また評判もよいお殿さまであったとも。それが何故、松の廊下で刃傷事件の被害に遇ったのか。ドラマでは数々の嫌がらせがあり、その腹いせに浅野の殿さまが耐え切れず吉良の殿さまに切りかかったとされる。仇討ちは幕末ではご法度となり、事実上の果し合いはなくなったようだが、歴史は様々な陰謀に見え隠れしていたのかも。今の日本はそうした歴史の人物らが作り上げた法治国家。もしも忠臣蔵のような仇討ちがまかり通ったら、それは日本ではなくなる。

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