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2010年5月30日 (日)

いのちありがとう

中村久子は、満二歳のとき突発性脱疽(とっぱつせいだっそ)という高い熱のために肉がやけ、骨が腐ってゆく恐ろしい病気にかかって、何度も手足を切りおとして両手両足を失った人です。久子が生れた明治の時代は、障害をもった人が今のように法律で守られ大切にされていませんでした。久子は、赤い鼻緒の下駄を履いて学校へゆくことを、夢にまで見ていたのですが、小学校へは一日も行かせてもらえませんでした。しかし久子は、母や祖母の厳しく暖かい教育をうけ、つねに前向きに生きようとした。久子自身の努力によって、口と短い腕をつかって裁縫、編物、字を書くこと、炊事、洗濯、掃除も人としてしなければならないことは、なんでもできるようになった。十九歳のとき、久子は自分から進んで見世物小屋の芸人になるために、故郷の飛騨をでていきました。見世物というのは、めずらしい芸やもの、曲芸などや手品などを人に見せる興行の世界のことです。手足のない人間が生きてゆくためには、その手足のない姿で裁縫をしたり、字を書いたりして、人々に見てもらって生きる見世物の世界しかないと苦しみ考えたすえに決心したからです。それから二十六年、久子は久子は見世物小屋の芸人として、つらくとも真剣に生き続けました。人生を生き抜くということは、障害を持たない人でも様々な困難と苦しみにあります。まして重い障害をもった人の生きるための努力は、わたしたちが想像もできない苦しみがあります。久子は、次々におそってくる困難と苦しみの中で蓮の花が泥のなかから染まらないで、うつくしい花をさかせるように、自分のうつくしい命の花を咲かせました。久子は決して、偉人伝のなかの人ではありません。名もないまま生きた、私たちと同じ人間です。しかし久子は、まだ日本が貧しかった時代に、手足のない不自由な体をうらむことなく、どんな苦労のなかでも生きている深い喜びを持って生き抜きました。多くの人々に愛の光を与える生き方をしたのです。

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この中村久子さんは、明治三十年十一月二十五日に、高山市で生まれた方で見出しにもあるように、二歳のとき足のしもやけがもとで突発性脱疽となり、両手両足とも失った方の一生を綴った本「こころの手足」から、抜粋させていただきました。高山市国分寺境内にある悲母観世音菩薩さまの像は、この中村久子さんが昭和四十年九月五日に建てられ、開眼法要を営んだ。明治から大正そして、昭和と生き抜かれた飛騨を代表する方でもありました。

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