続編 畑中陸軍少佐
御前会議で戦争終結の決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校らから、激しい反発が巻き起こった。終戦阻止のために阿南陸相が辞任して、内閣が総辞職すべきだと将校たちは開き直った。そうすれば、戦争終結に向けたポツダム宣言は無効になり、本土決戦に持ち込めると思っていたに違いない。阿南陸相は、そうした本土決戦の持ち込みたいと思う将校らに「陛下がそうご決断された。不服な者はこの阿南を切ってからにしろ・・・」と、畑中ら陸軍省の参謀たちに冷静化を求めた。8月12日午前0時過ぎ、米国サンフランシスコ放送は日本が回答したポツダム宣言受諾の内容を発表して、太平洋戦争の終結が間近いことを全米国に向けて放送。この文面の中に、日本政府による国体護持の要請に対して「天皇および日本政府の国家統治の権限は、あくまで連合国最高司令官に従うものとし、日本を隷属しない旨と文面に書かれていたという。しかし多くの陸軍内部には、天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唄う声が大半をしめたという。午後3時から開催された皇族会議の出席者たちは、概ね降伏に賛成していたが同時刻に開かれた閣議および、翌朝午前9時から最高戦争指導会議では議論が粉砕した。閣議においては、最後までポツダム宣言に反対していたのは、阿南陸相と松阪公政司法大臣・安部源基内務大臣の三名だったとされる。しかし、午後3時の閣議において、ついに回答受諾が決定された。陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長 荒尾大佐・同課員 稲葉中佐・同課員 井田中佐・ 軍務課員 竹下中佐・同課員 椎崎中佐・同課員 畑中少佐)らに面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍および近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木貫太郎首相・木戸幸一内大臣・東郷外相・米内海軍相ら政府の要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体維持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていた。阿南陸相はのちに梅津参謀総長と会った上でで決心を伝えると返答し、6名の参謀らをその場から解散させた。そして8月14日午前7時、陸軍省で阿南陸相と梅津参謀総長の会談が行われて、この席で梅津はクーデター計画に反対し、阿南もこれに賛同した。一方で鈴木首相は陸軍の妨害を拝するため、天皇出席の上での御前会議開催を思いつき、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集した。鈴木首相から再度の聖断要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受託を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけると述べて会議は散会された。これと同じころ、阿南陸相からクーデター反対ととがめられた陸軍参謀の6名たちは、クーデター計画案に代わる代案「兵力使用第二案」を密かに練っていた。閣議が始まった午後1時ごろ、社団法人日本放送協会会長の大橋八郎は、内閣情報局に呼び出され「終戦詔書が天皇陛下の直接放送となる可能性があるので、至急に準備を整えるように」と、指示を受けた。こうして陛下の声を直接放送するということになり、それにはあらかじめ、陛下の肉声を録音することで鈴木貫太郎は日本放送協会に指示。これが、あの玉音放送でもある。
そのころ、畑中少佐ら参謀たちは東部軍管区司令官 田中静壱大将に面会を求め、東部軍に出向いていた。東部軍にクーデター参加を求める予定だったが逢うや否や田中大将に一喝され、何も出来ないまま帰途についた。昭和天皇の玉音放送の録音は8月14日午後11時30分から宮内省政務室で行われ、録音盤は念のために二枚に録音され、一枚は宮内省徳川義寛侍従に渡された。徳川侍従はこの録音盤を皇后宮職事務室内の軽金庫に保管された。そして運命の8月15日午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終え、宮城を出ようとした下村宏情報局総裁および日本放送協会職員など数名が、坂下門付近で近衛歩兵第二連隊らにより拘束された。彼らは兵士に銃を突きつけられ守衛隊司令部の建物内に監禁された。焦りが参謀たちを次から次と襲ってくるが、中でも比較的冷静だった井田中佐は椎崎中佐とともに、近衛第一師団司令部において、第二総軍参謀白石通教中佐(森師団長の義弟)と会談中の席に入室し、近衛師団の奮起を促した。森近衛師団長は否定的な態度を堅持していたが「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束し井田中佐はこの言葉を聞き一旦、部屋をでて近衛師団の参謀長らの部屋に向かった。入れ替わり師団長室に入ってきたのは、畑中少佐と近衛師団を別件で訪れていた航空士官学校の上原重太郎大尉、および同志である陸軍通信学校の窪田兼三少佐の三人。畑中少佐らは、森師団長決起のご決心をと催促したものの、森師団長から一喝され畑中はもはやこれまでと、拳銃で森師団長に向け発砲。さらに、上原大尉が軍刀で同席していた白石中佐にも斬りかかり、森師団長それに白石総軍参謀中佐を惨殺した。森師団長らを殺害の後、師団参謀の古賀秀正少佐は、畑中少佐が起案したと思われる近作命甲第五八四号を、各部隊に口頭達し近衛歩兵第二連隊に展開を命じた。その令に、玉音放送の実行を防ごうと内幸町の放送会館へ近衛歩兵第一連隊が派遣され、また宮内省にも兵が動員されて皇宮警察を武装解除したのち、宮内省を家宅捜査し玉音盤の在り処を探し回った。また、井田中佐は水谷一生参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍のクーデター参加を求めたが、田中軍司令官および高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。田中軍司令官、高嶋参謀長らは午前4時過ぎ、芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡で、畑中少佐らの森師団長ら殺害を知り彼らの動向に疑問を感じていたし、師団命令が偽造であることも判った。芳賀連隊長は、その場にいた椎崎・畑中・古賀らに対し即刻、宮城から退去するように命じた。田中軍司令官は幹門付近で芳賀連隊長に出会い、兵士の撤収を命じると、そのまま御文庫さらには宮内省へ向かい、反乱の鎮圧を伝えた。午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて論しよう」と、述べられたとも。ちょうどその頃、阿南陸相が官邸で自刃した。畑中少佐はそうとも知らず、自ら第一中隊が占拠する日本放送協会へと向かい、決起の声明を放送しようとしたが職員らの機転により防がれた。二枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、無事に放送会館および特別に設けられた予備スタジオへと搬送された。運搬に際しても正盤は粗末な袋に入れられ、偽物を仕立てたとも言われた。最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎中佐と畑中少佐は、宮城周辺でビラをまき決起を呼びかけたが、もはや抗戦はこれまでと二人は二重橋と坂下門との間の芝生上で自殺した。また古賀参謀も玉音放送の放送中に、近衛第一師団司令部の二階に安置されてた森師団長の骨箱の前で拳銃と軍刀を用い自殺した。
日本の将来をと、当時の敗色濃い時代に戦争続行に命を捧げた畑中健二陸軍少佐。その御霊は、永遠に語り継がれることでしょう。
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