カテゴリー「歴史」の記事

2011年9月26日 (月)

続編 畑中陸軍少佐

御前会議で戦争終結の決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校らから、激しい反発が巻き起こった。終戦阻止のために阿南陸相が辞任して、内閣が総辞職すべきだと将校たちは開き直った。そうすれば、戦争終結に向けたポツダム宣言は無効になり、本土決戦に持ち込めると思っていたに違いない。阿南陸相は、そうした本土決戦の持ち込みたいと思う将校らに「陛下がそうご決断された。不服な者はこの阿南を切ってからにしろ・・・」と、畑中ら陸軍省の参謀たちに冷静化を求めた。8月12日午前0時過ぎ、米国サンフランシスコ放送は日本が回答したポツダム宣言受諾の内容を発表して、太平洋戦争の終結が間近いことを全米国に向けて放送。この文面の中に、日本政府による国体護持の要請に対して「天皇および日本政府の国家統治の権限は、あくまで連合国最高司令官に従うものとし、日本を隷属しない旨と文面に書かれていたという。しかし多くの陸軍内部には、天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唄う声が大半をしめたという。午後3時から開催された皇族会議の出席者たちは、概ね降伏に賛成していたが同時刻に開かれた閣議および、翌朝午前9時から最高戦争指導会議では議論が粉砕した。閣議においては、最後までポツダム宣言に反対していたのは、阿南陸相と松阪公政司法大臣・安部源基内務大臣の三名だったとされる。しかし、午後3時の閣議において、ついに回答受諾が決定された。陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長 荒尾大佐・同課員 稲葉中佐・同課員 井田中佐・ 軍務課員 竹下中佐・同課員 椎崎中佐・同課員 畑中少佐)らに面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍および近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木貫太郎首相・木戸幸一内大臣・東郷外相・米内海軍相ら政府の要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体維持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていた。阿南陸相はのちに梅津参謀総長と会った上でで決心を伝えると返答し、6名の参謀らをその場から解散させた。そして8月14日午前7時、陸軍省で阿南陸相と梅津参謀総長の会談が行われて、この席で梅津はクーデター計画に反対し、阿南もこれに賛同した。一方で鈴木首相は陸軍の妨害を拝するため、天皇出席の上での御前会議開催を思いつき、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集した。鈴木首相から再度の聖断要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受託を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけると述べて会議は散会された。これと同じころ、阿南陸相からクーデター反対ととがめられた陸軍参謀の6名たちは、クーデター計画案に代わる代案「兵力使用第二案」を密かに練っていた。閣議が始まった午後1時ごろ、社団法人日本放送協会会長の大橋八郎は、内閣情報局に呼び出され「終戦詔書が天皇陛下の直接放送となる可能性があるので、至急に準備を整えるように」と、指示を受けた。こうして陛下の声を直接放送するということになり、それにはあらかじめ、陛下の肉声を録音することで鈴木貫太郎は日本放送協会に指示。これが、あの玉音放送でもある。

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そのころ、畑中少佐ら参謀たちは東部軍管区司令官 田中静壱大将に面会を求め、東部軍に出向いていた。東部軍にクーデター参加を求める予定だったが逢うや否や田中大将に一喝され、何も出来ないまま帰途についた。昭和天皇の玉音放送の録音は8月14日午後11時30分から宮内省政務室で行われ、録音盤は念のために二枚に録音され、一枚は宮内省徳川義寛侍従に渡された。徳川侍従はこの録音盤を皇后宮職事務室内の軽金庫に保管された。そして運命の8月15日午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終え、宮城を出ようとした下村宏情報局総裁および日本放送協会職員など数名が、坂下門付近で近衛歩兵第二連隊らにより拘束された。彼らは兵士に銃を突きつけられ守衛隊司令部の建物内に監禁された。焦りが参謀たちを次から次と襲ってくるが、中でも比較的冷静だった井田中佐は椎崎中佐とともに、近衛第一師団司令部において、第二総軍参謀白石通教中佐(森師団長の義弟)と会談中の席に入室し、近衛師団の奮起を促した。森近衛師団長は否定的な態度を堅持していたが「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束し井田中佐はこの言葉を聞き一旦、部屋をでて近衛師団の参謀長らの部屋に向かった。入れ替わり師団長室に入ってきたのは、畑中少佐と近衛師団を別件で訪れていた航空士官学校の上原重太郎大尉、および同志である陸軍通信学校の窪田兼三少佐の三人。畑中少佐らは、森師団長決起のご決心をと催促したものの、森師団長から一喝され畑中はもはやこれまでと、拳銃で森師団長に向け発砲。さらに、上原大尉が軍刀で同席していた白石中佐にも斬りかかり、森師団長それに白石総軍参謀中佐を惨殺した。森師団長らを殺害の後、師団参謀の古賀秀正少佐は、畑中少佐が起案したと思われる近作命甲第五八四号を、各部隊に口頭達し近衛歩兵第二連隊に展開を命じた。その令に、玉音放送の実行を防ごうと内幸町の放送会館へ近衛歩兵第一連隊が派遣され、また宮内省にも兵が動員されて皇宮警察を武装解除したのち、宮内省を家宅捜査し玉音盤の在り処を探し回った。また、井田中佐は水谷一生参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍のクーデター参加を求めたが、田中軍司令官および高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。田中軍司令官、高嶋参謀長らは午前4時過ぎ、芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡で、畑中少佐らの森師団長ら殺害を知り彼らの動向に疑問を感じていたし、師団命令が偽造であることも判った。芳賀連隊長は、その場にいた椎崎・畑中・古賀らに対し即刻、宮城から退去するように命じた。田中軍司令官は幹門付近で芳賀連隊長に出会い、兵士の撤収を命じると、そのまま御文庫さらには宮内省へ向かい、反乱の鎮圧を伝えた。午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて論しよう」と、述べられたとも。ちょうどその頃、阿南陸相が官邸で自刃した。畑中少佐はそうとも知らず、自ら第一中隊が占拠する日本放送協会へと向かい、決起の声明を放送しようとしたが職員らの機転により防がれた。二枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、無事に放送会館および特別に設けられた予備スタジオへと搬送された。運搬に際しても正盤は粗末な袋に入れられ、偽物を仕立てたとも言われた。最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎中佐と畑中少佐は、宮城周辺でビラをまき決起を呼びかけたが、もはや抗戦はこれまでと二人は二重橋と坂下門との間の芝生上で自殺した。また古賀参謀も玉音放送の放送中に、近衛第一師団司令部の二階に安置されてた森師団長の骨箱の前で拳銃と軍刀を用い自殺した。

日本の将来をと、当時の敗色濃い時代に戦争続行に命を捧げた畑中健二陸軍少佐。その御霊は、永遠に語り継がれることでしょう。

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2011年9月 6日 (火)

畑中陸軍少佐

本名は畑中健二、彼は元日本陸軍参謀で陸軍省軍務課の少佐であった。彼は1945年8月15日つまり終戦の日の正午、玉音放送前の午前11時過ぎに皇居宮中の庭で、同じ陸軍軍務課参謀椎崎中佐とともに自決した。いきなり、畑中陸軍少佐と云ってもピーンとこない方も多いと思い、どんな人物であったか前編と後編にわたって、畑中陸軍少佐が関わった事件のことをお話しましょう。下記の写真は、畑中健二陸軍省参謀少佐であり、当時の実写真です。畑中さん、現在は靖国神社で静かに眠っておいでです。

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昭和20年7月26日。太平洋戦争での敗色濃い日本に対し、連合国側が発したポツダム宣言に内閣閣議は、ポツダム宣言を受託するか否やで鈴木貫太郎首相以下、内閣らの議論が紛糾した。阿南陸相は、あくまでも本土決戦派だったが、受け入れなかった。米内海軍相は「日本には、これ以上の戦争に耐えられるだけの国力がない」と、戦争終結の意見だった。閣僚は、はっきりした結論がでないまま、最終的には黙殺となったのである。そうしている間にも8月6日、広島に原爆が投下されて20万人もの命が一瞬に失われた。そして、9日には長崎に・・・・東京をはじめ、全国92の都市が焼け野原となった。8月14日、内閣閣議で結論がでないまま、宮城内地下防空壕の御前会議での天皇のことばは、「これ以上戦争を続ける事は、我が民族を滅亡させることになる。速やかに終結せしめたり」と、言うものであった。抗戦派の陸軍省参謀の畑中少佐、椎崎中佐らは、天皇のことばを知って噴った。「それでは国のために死んでいった者たちが浮かばれない」彼らは、陸軍省の阿南陸相に、こう迫った「辞職してください!そうすれば、内閣は敗戦の手続きが出来なくなり、本土決戦に持ち込めます!」しかし、阿南陸相の心は既に決まっていた。「天皇陛下の御意思に背くことは出来ない」だが、畑中少佐・椎崎中佐らの心中は決まっていた。これとは別に内閣は宮内省関係者らと、戦争終結をどう国民に知らせるのか議論を重ね鈴木首相が、前もって陛下のお言葉を玉音放送の録音でということに決まり、天皇自らの声をラジオ放送に乗せるというものだった。詔書案作成にも議論紛糾のなか、放送は8月15日正午と決定した。阿南陸相は、放送の日にちを2日待って欲しいと鈴木首相に申し出たが、「日増しに高まる連合国の爆撃などに一刻の猶予もありませんし、放送の日を延ばすことは考えられない」と、却下したのである。それと、近衛師団に不隠な動きがあると、内閣の重臣たちから耳打ちされる。しかし、鈴木首相は「近衛師団に限ってそんなことはないと思いますよ、だいたい近衛師団は陛下をお守りする軍隊です」と、重臣たちにそう語っていた。その時間にも、特攻隊員たちは太平洋の連合国の空母に向け飛立って行くのだが。抗戦派の陸軍省の将校たちは焦っていた。いざ決起すべきか、否か・・・長引いていた詔書案が出来たが、天皇が少しばかり修正を加えたため連合国に対し、ポツダム宣言受諾への打電が行われた。こうして、正式に戦争終結に向けた日本のメッセージが世界に流れる事になった。おさまらないのが、陸軍参謀の畑中少佐や椎崎中佐らの青年将校たち。。。。

この続きは次回に掲載します。 

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2010年10月19日 (火)

戦国時代

先週の土曜日(10月16日)に、関ヶ原合戦四百十年祭りに出掛けてまいりました。この合戦は1600年9月15日でしたから、あれから既に四百年以上経った戦国時代。東西に分かれた世紀の戦い、徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成?を総大将とする西軍。約15万の兵力が、この関ヶ原に集まり戦ったのです。

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歴史を覆すことはいけないことですが、もしこの戦いでこんな事がなかったら、あの戦いは結末が逆転してたと思います。でじめに西軍の総大将石田三成?と書きましたが、本来の総大将は、南宮山の麓に陣をとった毛利輝元だったが、この毛利は一兵たりとも本戦には参加せずじっと、戦いを見届けただけであった。従って西軍の総大将は、毛利に代わって石田三成が指揮を執った。そして、西軍にとって最大の誤算は、松尾山に陣取っていた小早川秀秋(脇坂安治・赤座・小川)らの裏切りだったと言えよう。大谷吉継らの背後から攻め入り西軍を混乱させ、とどのつまりは東軍に寝返った事が西軍敗戦の大きな原因だったとされる。もしあの時毛利の大軍が、そして小早川らの寝返りなどがなかったら西軍が勝ち、この関ヶ原の合戦以降、長期にわたった徳川政権は家康の死後、無かったに等しい。

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2009年12月15日 (火)

赤穂浪士の討入り

1702年(元禄15年)12月14日の深夜、浅野内匠頭家臣らによる播州赤穂藩の浪士ら47名が、本所松坂の吉良邸に討ち入った。のちの「忠臣蔵」として、世に語り続けられた。毎年この季節になると、テレビなどで忠臣蔵が放映されていたものだが、ここにきて暫くこの赤穂浪士そのものが風説化したのであろうか、お目に懸かれなくなってきました。何度も観た映画の中では俳優、片岡知恵蔵ふんする大石内蔵助が最も印象に残っています。あの独特な語り草は、かつての時代劇の名優であったのでしょう。でも、この討入りでは赤穂藩の浪士が47名となっていますが、実は46名であったとされるのは知らぬ方も多いのではないでしょうか。その1人とは寺坂吉右衛門信行であったとされる。その寺坂は討入りの途中で姿を消しており、吉良上野介義央の首級を獲り、主君が葬られている泉岳寺に凱旋するときは46名だった。仇討ちは当時の幕府内部でも助命か処罰かでかなり議論した模様であるが、結果は46名全員の切腹であった。翌年1703年2月4日、46名の浪士たちはそれぞれ四つの大名江戸屋敷に身柄を預けられていたが、全員が切腹を果たしたのである。この赤穂浪士による討入りに関しては様々な憶測があり、時間も未明としか言い表わしていない。正確な時間は午前3時半ごろと言われているが、現代の日付変更時刻は午前0時だが当時は夜明けが日付変更だったため、討入りは1日前の12月14日のうちに行われたとされる。愛知県幡豆郡吉良それに播州赤穂は、ともに塩の産地としても有名で一説には、この塩を巡ってのトラブルが尾を引いた刃傷事件だったとされる。浅野の殿様は、気性も気が荒く短気だったともされる。一方の吉良の殿様は人情味があり、礼儀もあって心優しい人だったとも。では何故このような松の廊下での刃傷までことが発展したのかは、307年以前までにタイムスリップしないと解からない。歴史はその時その時によって、書き綴った著者によって違ったニアンスが書き足されてしまう。Nikon2009_1215_033

下の写真は、3年前に姫路に行ったときJR赤穂駅で買った赤穂の大石弁当です。ファイルに保存してあったものですが、討入りが今日のテーマでしたので思わず引っ張りだしました。2006_0416_044

今夜は同年会たち仲間のPPK会忘年会でした。PPK(ピンピンコロリ)ボーリングの名前なんです。還暦を過ぎて入会すると、1ゲーム150円の料金でウィークデイはプレイできます。月に1回のペースでプレイしていますが、私はこの1年で始めてのプレーでした。1年の締めくくりでの忘年会でしたので、最後ぐらいはと参加してきました。

明日はどんな出会いがあるのでしょう。

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2009年3月 4日 (水)

小早川秀秋

2008100454 戦国時代の武将には、日本の各地に数百とも言える武将が居たとされる。その多くは藩主であり、当時の諸大名らが代表される将でもあったようだが、戦国時代は徳川、そして石田、毛利らが天下に名を連ねていた時代でもある。この小早川秀秋は、天下分け目の合戦と言われた関が原の戦いまでは、名も知れぬ一人の武将であったがこの合戦で一躍名が知れ渡った。慶長5年(1600年)の関が原の戦いでは西軍に参戦したが、その前の伏見城攻略で小早川が戦功を挙げたにも関わらず、石田三成が戦功を認めなかったために小早川は、怒り狂ったとも言われた。このときから小早川秀秋は、反石田として寝返っていたのかも知れない。そして関が原の合戦では、小早川は一万五千とも言われる大軍を西軍勢下の松尾山に布陣した。戦火が切られ午前中までは東軍、西軍ともに互角の戦いであったという。そして昼を過ぎた辺りから西軍として布陣していた小早川秀秋が、一万五千の軍勢を同じ配下であった大谷吉継の配下から攻め立てた。これによって、一気に形勢が東軍へと流れてしまい西軍は敗北したのである。この立役者である小早川秀秋は、のちになって裏切りの小早川というレッテルを貼られてしまった。その後は、徳川家康から功績の賞を受け、藩主備前の国岡山城の改築などに施した。そして慶長7年(1602年)、関が原の合戦から僅か2年後に死去する。秀秋の死後、旧臣は関が原での主君の裏切りを責められたため、仕官先がなかったとも言われた。小早川秀秋の菩提寺は岡山市の瑞雲寺である。Photo

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2009年2月24日 (火)

若武者蘭丸

歴史本の山崎の戦いを読んでいるうち、明智光秀から、どういうわけが森 蘭丸にとステップダウンをしてしまった。山崎の戦いについては後ほど書いてみるが、ちょっと話をそらして蘭丸のことに言及したい。安土桃山時代に、君主 織田信長に可愛がられた森三左衛門可成(よしなり)を父に持つ蘭丸。当時の語録には「蘭丸」ではなく、乱丸いや乱法師の言い伝えが書いてある。「蘭丸」は、後世によって創作的に創られた字名とされたらしい。天正10年(1582年)に本能寺の変によって、君主 織田信長が明智光秀の軍勢によって倒れ、蘭丸も明智軍勢と戦ったが無念にも討死を遂げた。この時の蘭丸は若干 十八歳だったとも記されている。そのとき一緒に戦ったのが、蘭丸の弟二人で、坊丸と力丸であった。奇しくも明智光秀の夜襲により、手薄な警護が後になって信長の念願だった天下統一ができずじまいになった。この蘭丸は岐阜県兼山町に墓が分散されてあり毎年、蘭丸まつりが開催されるほどである。君主に忠誠を誓った若き蘭丸兄弟は、同じ信長の家来として君臨していた光秀に討ち死にしたのは歴史が語るストリーとして実に巧妙さが感じられる。さて、山崎の戦いだが、ここでも明智光秀が登場してくる。本能寺の変によって、信長を討ち取った光秀は、天敵だった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が毛利輝元と何れは戦うと読み、その隙をついで羽柴と戦をする腹積もりだった。しかし、羽柴は信長の死後に白鷺城(今の姫路城)に戻り、軍備を整えて高槻まで進駐した。その間にも羽柴勢には高山右近、細川幽斎、筒井順慶らがつき、もはや毛利との戦が決定的となったが、頭がきれた羽柴は、毛利とは戦を避け、信長を討った光秀が京都山崎に居ると判断した羽柴の頭脳どおり、光秀と戦う準備をしたのだという。そうとも知らず光秀は、毛利が居直ると計算していたのであろう約一万六千の兵を持って援軍を頼みもしなかったとされる。羽柴は二万六千とも言われる兵を引き連れ、光秀が立て篭もる山崎へと進んだのである。この山崎の戦いは、わずか一日で終わり、光秀は家来数名と逃亡したが宇治で土民たちに襲撃されこの世を去ったのである。ここで明智光秀の三日天下が終止符をうった。勝った羽柴秀吉は、そのあと天下統一の道を進むとともに太閤検地を施工しはじめ、豊臣の名を全国に轟かせた。Photo

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